「自分のため」に涙すること
昔から、涙を流すことが苦手でした。
学校や会社で、人前で泣く子を見るたび(そういう子はなぜか、よく私のところに来て泣く)、心の中では「それってどうなの」と思ってた。
人前はおろか、ひとりでいるときも「自分のため」には泣かない。
悲しい映画を観て泣くことはあるけど、それは「自分のため」じゃない。
辛くても苦しくても「自分のため」に泣くことだけは、ぐっと堪えてきた。
私が泣くのは、本当にギリギリまで耐えたあと。
覚えているのは、子どものころに、ずっと我慢してきたことを先生が見抜いて、かばってくれたとき。会社員時代、毎日15時間近く働いて、休みもほとんどなくて、消えてしまいたいと思うほど鬱々としていたとき。あとは、婚約までしていた恋人と、長い長い話し合いを経て、別れることになったとき。
でも、それも一回きりで、どこかで「こんなことで泣いちゃダメ、しっかりしなきゃ」と思っていたから、すぐに泣き止んだ。
そんな私が、摂食障害を自覚して以来、今までの人生でありえないほど頻繁に「自分のため」に泣いています。
こんなに涙があったんだ、と驚くほどの号泣ぶり。うめきながら泣きじゃくって、涙も鼻水も止まらなくて、わんわん泣いて。自分に対して「よく頑張ったね、もう我慢しなくていいんだよ」って言いながら、その言葉に自分で泣けて。
冷静な私なんて影も形もない。ただ、涙が流れ落ちるに任せて泣く。
こんなに我慢をしてきたんだ、と驚いてばかり。
こんなに格好つけてきたんだ、とも言えるけれど。
「冷静な私」なんていなくて、本当はずっとずっと、自分に正直になって、わんわん泣きたかったんだね、私は。
子どものころから、母は私が泣くたびに嫌な顔をした。大げさな話ではなく、私が泣くと嫌悪したように顔をゆがめて、じっと見ていた。
「なに泣いてるの」「泣かないでよ」と言ってくるときは、まだマシ。大抵は無言で嫌そうな顔をして、ただ困っていた。
普段はあんなに優しい人なのに、どうしてそんなリアクションになるのか、さっぱりわからなくて、私は母の前で泣くことをやめた。
母の前だけじゃなくて、自分のために泣くことが恥ずべきことみたいに感じて、自分のことでは泣かなくなった。
母もまた、泣けない人。彼女が泣いているのを見たことがない。
親友を亡くしたときでさえ、悲しんでいるのは確かだけど、涙は流さなかった。
悲しい映画を一緒に観て、映画好きの母がとても感動していることは伝わってくるけど、やっぱり泣くことはない。
映画の最中、私が涙を流すと決まって私の腕をつつき、からかうような声で「やだ、あなた泣いてるの?」と聞いてきた(よりにもよって、映画のクライマックスに(苦笑))。
だから私は今でも、右目からはあんまり涙が出ない。よく母が右側にいたから。
もしかしたら母もまた、かつて何か嫌な目に遭い、泣くことをやめたのかもしれない。
泣くことは弱い、泣くことは情けない、泣くことは逃げること、泣いてはいけない……そんなふうに思っているのかな。
次第に私もそう思うようになってた。
たぶん今回、摂食障害にならなかったら、自分が「自分のために泣いたことがない」なんて自覚もせずに、生きていったと思う。
でも今、長すぎる時を経て、ようやく自分のために涙しています。
その涙はビックリするほど温かくて、優しくて、私のなかで我慢しつづけていた「小さいころの私」までもが慰められ、泣くたびに心が落ち着いていく。
そして泣くたびに、自分以外の人に対して、優しい気持ちがこみ上げてくる。
泣くのって大事なんだ。
それはつまり、悲しいときに「私は悲しい」「私は傷付いている」「私は平気じゃない」と認めること。
そういう弱い気持ちを持った自分を、ちゃんと受けとめ、認めてあげること。
母のせいにはしない。
今はただ、ずっとおろそかにしてきた素直な感情をそっと抱き留めながら、摂食障害に向き合っていきたいと感じています。
これが治療と回復に、どう役立つのかはわからないけれど……
ぐちゃぐちゃになって泣いてる私だって、私の一部。そして、正直になった私もそう悪くない。この正直さはいいものだよって思うから。
それならば、ずっと堪えて頑張ってきたストレスが積もって、過食嘔吐している私のことも嫌わないで、「今は我慢しなくていいんだよ」って言ってあげてもいいのかもしれない。
このごろ涙を流すたび、そんなふうに感じています。
過食嘔吐はまだ続いているけれど、私にとってこの涙は、希望の光と言えるかもしれません。